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エサ=ペッカ・サロネン氏との電話インタビューが急遽実現しました!
「今日から3日間は比較的時間の余裕があるので、インタビューを受けられます」と連絡があり、スケジュールをチェックしてみると、11月まで各地で公演を行って、12月のコンサート予定はなし…、そして1月からまた旺盛な活動が始まります。
指揮者であり、作曲家でもあるマエストロ。作曲に専念する期間に、インタビューの時間をとってくださったようです。
iPad Airのコマーシャルなどから、クールでシャープな印象が強かったのですが、お電話ではひとつひとつの質問に誠実に十分に答えてくださって、あたたかい気持ちになりました。
エサ=ペッカ・サロネンは、twitterやFacebookで発信を続けていますが、最近「LAのIKEAに行ったのだけど、Gl?gg(日本で言うところのホットワイン)がなくて・・・」というtweetがありました!
マエストロ!どうぞ良いクリスマスを!
Q:今日はインタビューに応じていただき感謝いたします。マエストロ、今月(12月)は、演奏のご予定がありませんが…
エサ=ペッカ・サロネン(以下E.-P. S.):そうなのです。目下、作曲中です。今月は「作曲月」です。
Q:そうだろうと思いました。曲を作られるときは、パフォーマンスをあえてなさらないですよね。お書きになっているのは現代音楽作品ですか?
E.-P. S.:はい。現代音楽です。ニューヨーク・フィルハーモニックに提供するオーケストラ作品です。15分ほどの長さのものになります。
Q:ちょうど作曲のお話がでたので、伺いますが・・・マエストロはフィンランドのご出身で、フィンランドといえばなんと言ってもシベリウスですね。3月に演奏していただく演目にもシベリウスがあります。ご自身のなかに、作曲家として、シベリウスの影響がありますか?
E.-P. S.:私の「シベリウス観」を語ろうとすると、ちょっと、長い話をしなくてはなりませんが。おっしゃるとおり私はフィンランド人で、音楽教育をヘルシンキのシベリウス音楽院で受けました。自国では、もう、そこらじゅうにシベリウスの音楽があるんです。正直、辟易(へきえき)していました。シベリウスの曲のどんな音符を見ても息が詰まるような思いでしたよ。何というか、自分のような若い音楽家の可能性を締めつけられる思いでした。ですから「どこか、シベリウスが浸透していない国に行きたい。」と切望して、それでイタリアに行ったのです。そこで「平和な心持ちで」(笑)、作曲の勉強に没頭しました。ミラノでね、カスティリオーニ先生に教わっていた頃のことです。イタリアの環境ではシベリウスは、もちろん、知られていないわけではありませんでしたが、毎日の学科の中に組み込まれているほどではありませんでした。ところがね・・・面白いことが起こったのですよ。ある日、ふと出かけたミラノのアンティーク市場でのことです。スカラ座の近くでときどき開かれる市で、授業の後に立ち寄ったのですが・・・古本屋が店を出していましてね。そこに山積みになってポケットサイズの楽譜が何冊も安く売られていたのです。一冊一冊、見ていきました・・・その中にシベリウスの交響曲第7番があったのです。新書版ぐらいの版です・・・値段は・・・500リラでした。当時はエスプレッソ一杯がそのぐらいの値段でしたよ、たしか。
Q:掘り出し物だったのですね。
E.-P. S.:ええ。今から考えれば、実によい投資をしたのです。バスに乗り、市中心からちょっと離れたところに住んでいましたから、車中でその楽譜を見てみたのです。そのときが、私の関心がシベリウスに戻り始めたときでした。それまで、彼の作品と自分との間に、ある距離を置いていたのです。彼の個性・・・独創性が、そのとき初めてわかったんですね。シベリウスが用いるハーモニー、その語りの手法を、初めて「楽しい」ものに感じたのです。フィンランドで勉強していたころには「これは、やらなきゃいけない勉強だから。」という圧迫感が、いつもつきまとっていましたから。
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Q:大人は「これは、素晴らしいものだから。」と、本来は愛情と熱意をこめて子どもたちに薦めるわけですが、それを子どもたちのほうでは重圧に感じて、勉強の題材そのものに興味を失ってしまうことがありますね。「その名前を聞くと、退屈な授業を思い出す」という、あれですね(笑)。
E.-P. S.:ええ、そのとおりです。このミラノでの発見があって初めて、私はシベリウスのことを正しく知ることができました。彼はフィンランドの優れた作曲家というだけではなくて、世界に通用するレベルの、素晴らしい作曲家でした。そのことを再発見したのです。もちろんフィンランドの民族性を熟知した作曲家であり、そのアイデンティティは自明のことですが、でも、彼はそこに留まらないのです。シベリウスについて私はより自由な発見をしたのです。そのためには時間が必要だったのでしょう。いったんはシベリウスから離れ、その後に、シベリウスを彼の同時代の作曲家であるストラヴィンスキーやリヒャルト・シュトラウス、マーラー、ヤナーチェクらと並べ、伸び伸びした目で見直すことが可能になったのです。今思えば、若い学生にはそういうステップが必要なのでしょうね。いったん自分のトラディショナルな要素から離れてみて、かつ、それを遠くから見直してみる、そういう経験がね。その結果、義務感や学生時代の習慣から続けるのではなく、自国の伝統を自由に「選ぶ」ことができれば良いのです。要は、興味をもってあたる対象に、ほんとうに情熱を感じているかどうか、です。
Q:今いただいたお言葉から、コンサートを聴く立場として、やはり自由な心持ちを忘れてはいけないな、と感じました。シベリウスがフィンランドの作曲家であることを、私たち聴衆も、もしかすると意識しすぎでしょうか?
E.-P. S.:そうですね…シベリウスはまぎれもなくフィンランドの個性を持っています。また、初期作品においては、北欧の隣国スウェーデン文化の要素も濃いのです。彼は歌曲にスウェーデン語の詩も多く使っています。フィンランドとスウェーデンには、似通った部分、対立する強い別の個性の部分があり、つまり、シベリウスは思いのほか、土台が複雑で、いわば、ハイブリッドです。それに19世紀末のフィンランドは現在の姿とはまったく違っていましたから、現代の私たちの視点から「当時のフィンランドはこうだった。」と判断することさえ難しいのです。私の音楽観をお話してもよいのなら、クラシック音楽の美しさとは、過去から受け継がれた傑作と呼ばれる作品が、その国家的な特色があたかも媒介変数として作用するかのように、さらに広い世界ですべての人たちにとっての傑作へと変貌・発展していくこと。その過程が、本当に美しいのです。私と同時代の他の指揮者の皆さんでも、もちろん、過去に活躍された指揮者の方々もふくめ、みごとなシベリウスの演奏をする人たちは少なからずいますよね。彼らはフィンランド出身の指揮者とは限りません。うきうきしてきませんか?ある国の確固たる個性を表すような作品が、他国の芸術家たちの解釈により、さまざまな演奏で上演されるのです、たとえば、サイモン・ラトル氏やワレリー・ゲルギエフ氏などは興味深いシベリウスの解釈をなさいます。グスタヴォ・ドゥダメル氏も挑戦していますね。
Q:ドゥダメル氏はベネズエラのご出身ですし、大陸も、気候風土もまったく違う土地のマエストロが、雪に覆われた北欧の景色を彷彿とさせるような曲を、どうやって解釈するのだろう?と、不思議な気がします。
E.-P. S.:いえいえ、面白いのは、むしろそういうところです。地理的な条件や国籍が人間同士を物理的に隔てているとしても、そこでコミュニケーションの助けになるのは「ことば」ですよね。それぞれの楽曲は作曲家が使うことばによって書かれています、それは「音楽のことば」です。芸術家や鑑賞者はそのことばを介して作曲家の思いに触れます。ですから必ずしもその国の文化や環境そのものを、知識として知る必要はないんですね、むしろそれは楽曲のことばのなかに現れますから、そこを深く楽しめばよいのです。もちろん国の特性に関する知識があれば音楽を楽しむ上でプラスになることはあるでしょう。でもそれは絶対に必要なことでもないのです。
Q:なるほど。理屈を越えているのですね。
E.-P. S.:皆さんにとてもわかりやすい例でお話しましょう。日本の皆さんは年末にあちこちで、ベートーヴェンの交響曲第九番の演奏会をなさいますよね。日本語では「ダイク」って呼ばれているんですよね、知っています。それはみなさんが、とくにドイツのことやベートーヴェンについてご存知なくても、あの楽曲にこめたベートーヴェンの言葉を理解して、感銘を受けて、愛していらっしゃるからでしょう。じつはあの交響曲にこめられているのはベートーヴェンによるひじょうにドイツ的な詩情・理想で、それが、聴衆に強く訴える手法を用いて音楽となっているのです。日本のみなさんの感覚がそれをキャッチしているということで、本当に素敵なことです。音楽の持つ大きな力を証明してくれる例でもあります。またそのようにして世界中で第九交響曲は演奏されているわけなのです。
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Q:このお話にもとづいて、北欧人であるサロネンさんに、ぜひ日本の楽曲を指揮していただきたいものです。
E.-P. S.: 武満徹氏の作品は大好きです。彼の作品こそ、ボーダーレスなカルチャーの代表格だと思いますよ。
Q:日本の伝統的な音楽には、さらに、ヨーロッパのクラシックとはそもそも異なる音階を使用したものもあり、興味を持っていただけると思います。
E.-P. S.:日本の古典楽曲に関しては、少なからず録音などで耳にしています。もちろん、興味をひかれています。
Q:目下(註:インタビューを行った12月)作曲に専念されているとおっしゃっていましたが、指揮台に立たれるときと、ご自分の部屋で作曲をされるときとで、ご自身の状態はどのように違うのでしょうか?
E.-P. S.:演奏と作曲とは二つの異なる活動です。単純にではなく、いくつも異なった点があります。まさにその各点がヴァイス・ヴァーサ(vice versa=裏返し・VS.) です。作曲に集中しているときの私は、自分の音楽的な考えを記述する方法探しに徹しています・・・その方法とはすなわち、のちにそれを演奏する人たちの目線も考慮して、たがいに共有できるものに仕上げなければ、ということですが。そして当然ながらその同じ線上に聴衆の目線も汲み取ることになります。ですが指揮をする時というのは、自分ではないだれか=作曲家の思想を探り、それを、やはり自分以外の人々へと運搬する役割を担うわけです。段階として、まず演奏家にそれが十分に伝わるよう配慮し、結果演奏家が聴衆にそれを手渡せるように配慮するのです。作曲家が「発した」ものを指揮者が「受ける」立場とすると、この二つの作業を行うことは私の中で逆方向運動のような感じがあります。
今お話したのは理論上の違いですが、もっとわかりやすく実際にやってみるとどうか・・・というと、指揮するのはすごく疲れます。体力を使います。「社会的」と言葉があたるのでしょうが、濃密に人と関わるわけです。目の前に100人もの楽器奏者がいるうえに、コンサートホールには聴衆のみなさんがいらっしゃるのですから。生活のいろいろな場面の比率で考えれば、演奏会の1回1回は比較的短い時間で終了するものですけれど、そこで消耗するエネルギーは非常に大きい。インスピレーションも駆使しますし興奮状態も起こります。夕食に仲間と食べて飲んで、ワイワイして楽しみ、でも明日は明日で別の日になる・・・というようなもので。。。それが作曲となりますと、活動そのものはゆっくりとしたスピードで、一人きりの作業になります。私は自室にこもり、周囲からまったく孤立します。遅筆なのです。長さにして5秒分の楽譜を書くだけの日もあり、まったく進まない日もあり、もし30秒分も書けたなら、私の場合上出来です・・・そこまで筆が進む日はめったにないのですが(笑)。お判りいただけるでしょうか。精神がフォーカスする地点が、指揮台に立つときとは、これだけ違うのです。オーケストラ用に長い作品を書くために、1年とか2年を要することもあるのですが、まったくマラソンみたいです。指揮のほうはさしずめ100メートルダッシュですね。
この後、コンディション調整の方法、3月に来日するフィルハーモニア管弦楽団、共演するソリストたちの話に・・・。
続きは、新しい年にお贈りします!
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黄金時代を迎えた巨匠&名門
エサ=ペッカ・サロネン指揮 フィルハーモニア管弦楽団
2015年03月04日(水) 19時開演 サントリーホール
2015年03月06日(金) 19時開演 サントリーホール
<<シベリウス生誕150周年記念>>
2015年03月08日(日) 14時開演 横浜みなとみらいホール
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