ドレスデン国立歌劇場 ゼンパーオーパーSächsische Staatsoper Dresden Semperoper

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ドレスデン国立歌劇場<ゼンパーオーパー>の歴史と展望
 
                             岡本 稔(音楽評論家)
                             Minoru Okamoto

●宮廷楽団の誕生から最初のオペラ・ハウスへ
 ドレスデン国立歌劇場のオーケストラ、シュターツカペレ・ドレスデンは1548年に創立された宮廷楽団を起源とする世界で最も古いオーケストラのひとつ。1547年に選帝侯となったモーリツ公は、8名か9名のトランペット奏者とティンパニという編成の楽隊を結成した。一方、19人の歌手とオルガニストという構成の宮廷聖歌隊も組織されており、1606年には47人の歌手とヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、フルート、ショーム、ホルン、クルムホルン、ダルシアン、コルネット、トランペット、トロンボーン、太鼓、リュート、オルガンといった編成のオーケストラに発展した。この二つの流れを受け継ぐのがシュターツカペレ・ドレスデンである。
 ドレスデンの宮廷楽団が誕生してほぼ半世紀後の1597年に新しい芸術ジャンルが産声をあげる。イタリア、フィレンツェのバルディ伯爵の宮廷で史上初のオペラ《ダフネ》が上演されたのである。それは程なくイタリア全土に広がり、ドレスデンの宮廷にもその波は及んできた。1617年から72年まで宮廷楽長をつとめたハインリヒ・シュッツは、当時まだ木造だったツヴィンガー宮殿のファサードやさまざまな広場、宮殿の広間などを使用してオペラの上演を行うとともに、1627年には自作のオペラ《ダフネ》をハルテンフェルス城のホールで初演するなどしてドレスデンにおけるオペラの歴史の第一歩を記した。1631年には三十年戦争の戦渦がドレスデンに及び、39人の楽員を擁していた名声を誇る宮廷楽団も10名編成まで縮小を余儀なくされる。しかし、再建につとめたシュッツの尽力と65年に選帝侯に就任したヨハン・ゲオルク2世が連れてきた自らの宮廷楽団との併合によって35名の編成までに復旧した。
 ドレスデンにおける最初のオペラ・ハウスは1664年から、67年にかけてツヴィンガー宮殿の向かいのタッシェンベルクに建設された。ヴォルフ・カスパー・フォン・クレンゲルの設計による劇場は、現在のオペラ・ハウスを大きく上回る2000人近くの観客を収容できる大規模なもので、当時の最新鋭の照明、舞台機構を備えていたという。1667年1月27の柿落としでは、ボンテンピの《テセウス》が上演された。イタリア贔屓だった当時の選帝侯ヨハン・ゲオルク3世は1685年にイタリア・オペラの常設カンパニーを設立し、カルロ・パラヴィチーノを楽長に招いた。

●「強健王」による新オペラ・ハウス
 ヨハン・ゲオルク3世、その息子の4世の治世下の1694年まで、謝肉祭の時期にオペラ上演が続けられた。その後継者、フリードリヒ・アウグスト1世(ポーランド王を兼任し、ポーランド王としてはアウグスト2世、いわゆる「強健王」1697-1704、1701-33在位)、ならびにフリードリヒ・アウグスト2世(ポーランド王アウグスト3世、1733-63在位)の時代は、専制君主の多くがそうであったように建築、美術、音楽、演劇といった芸術が覆うに奨励された。フランスの芸術を愛したフリードリヒ・アウグスト1世はイタリア・オペラ・カンパニーを解体、それにかえてフランス歌手や俳優が好んで起用される。一方、つづくフリードリヒ・アウグスト2世の関心はもっぱらイタリア・オペラに向けられた。
 「強健王」の治世のもと1718年9月9日から1719年8月25日という当時としてはまったく異例とも言える短い工期で新しい歌劇場が完成された。ツヴィンガー宮殿に隣接した場所に位置する劇場は、M.D.ペッペルマンの設計、アレッサンドロ・マウロの装飾による2000人収容の当時のヨーロッパで最大規模を誇るものであった。1734年から1763年まで楽師長をつとめたヨハン・アドルフ・ハッセによってイタリア・オペラを中心とした壮麗な舞台上演が続けられ、この劇場の上演はヨーロッパ中の評判となった。また、注目すべきは入場料を無料にした時期があったことである。
 1756年から63年まで続いた七年戦争でザクセンが敗れ、ザクセン選帝侯が兼任していたポーランド王室とのつながりが途絶え、経済的にも大きな打撃をこうむった。ドレスデンの町もプロイセンの砲撃で大きな被害を受ける。そうしたなか、大劇場における上演は中止を余儀なくされるが、1755年にモレッティによって建設された劇場を「小宮廷劇場」と命名、オペラ上演が続けられる。イタリアのオペラ・ブッファとともに、《後宮からの逃走》、《魔笛》といったモーツァルトの作品も上演されている。自ら優れた鍵盤楽器奏者だった当時の選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世は宮廷での音楽活動の伝統を守り続けることに腐心した。

●ドイツ・オペラの創設、ゼンパー設計によるオペラ・ハウスの開場
 ウィーン会議でザクセン王国の存続が決まり、1817年に宮廷楽団、宮廷劇場の初代総監督官ハインリヒ・フィッツトゥム伯によってドレスデンにドイツ・オペラが創設された。ドイツ・オペラは宮廷が好んだイタリア・オペラの団体と共存する形で上演が進められたが、32年にイタリア・オペラ団が解散、ドイツ・オペラが主導権を得る。そのドイツ・オペラ部門の楽長をつとめたのがカール・マリア・フォン・ウェーバーである。イタリア・オペラをすべて排除し、ベートーヴェンの《フィデリオ》、自作の《魔弾の射手》、《オイリアンテ》によってドイツ・オペラの礎を築いた。1826年にウェーバーがロンドンで夭折したことは、ドイツ・オペラの発展にとって大きな痛手であった。1824年から26年まで、ワーグナーの先駆者として知られる作曲家ハインリヒ・マルシュナーが音楽監督をつとめたものの、その影響力は小さかった。カール・ゴットフリート・ライシガーが音楽監督に就任、28年から楽長、51年から59年までは首席宮廷楽長としてドレスデンのオペラ発展に尽力した。その間の43年から49年まではリヒャルト・ワーグナーがライシガーとともに楽長をつとめ、オペラ、オーケストラ双方の活動でおおきな足跡を残した。ワーグナーのドレスデンにおける活躍については別項を参照していただきたい。
1838年に開始されたゴットフリート・ゼンパーの設計による宮廷劇場は、1841年4月12日に開場、ウェーバーの祝典序曲、ゲーテの《トルクヴァート・タッソー》によって柿落としされた。1849年の五月蜂起に加担したワーグナーはドレスデンを離れることを余儀なくされ、カール・アウグスト・クレプスが楽長に就任、60年にはユーリウス・リーツがその後任者となった。リーツはオペラ、オーケストラの両面で活躍し、1874年から没する77年まで、ドレスデンの初代音楽総監督をつとめた。

●初代ゼンパーオーパーの輝かしき時代へ
1869年の火災で初代のゼンパーオ?パーが焼失、木造の仮劇場で活動を続けたが、1878年には同じ設計図に基づいて再建され、1872年よりシュターツカペレの音楽監督、指揮者として活躍していたエルンスト・フォン・シューフが1882年には音楽総監督に昇進、その主導のもとでドレスデンの歌劇場史上、もっとも輝かしい時代を迎える。旧来のレパートリーにおける高水準の上演に加え、9つの初演を含むリヒャルト・シュトラウスのオペラによってゼンパーオーパーの名前を世界にとどろかせた。
リヒャルト・シュトラウスはドレスデンに住んだことはなかったものの、ドレスデンの音楽文化とはきわめて密接なかかわりを持っていた。円熟期の彼のオペラのうち9つもの作品がドレスデン宮廷歌劇場で初演されたという事実がそれを如実に物語っている。その詳細については別項に譲ることとし、ここではシュトラウス晩年のエピソードをご紹介するにとどめる。ドイツの敗色が誰の眼にも明らかになったシュトラウス80歳の頃、劇場の閉鎖を控え、カール・エルメンドルフらによってシュトラウスのオペラが連続上演された。それに列席したシュトラウスはもう二度とこの地を踏むことがないと予感しただろう。1945年3月13日から4月12日かけて、シュトラウスは弦楽器のための「メタモルフォーゼン」を作曲した。そこで表現されているのは、ゼンパーオーパーをはじめとする自分が深くかかわってきたオペラ・ハウス、さらにはドイツの精神文化を失った悲しみである。シュトラウスは死の直前までドレスデンのオペラ文化の再興を願い続けた。ある手紙の中で、「私は、愛する哀れなドレスデンが、気品あふれるオペラ芸術を再構築しようと真剣に取り組んでいるということをお聞きして大変喜んでいます。私はカール・マリア・フォン・ウェーバーとリヒャルト・ワーグナーによって神聖化されたあの美しい劇場を幾度も想い起こしました。それは忘れもしないシューフによって私の作品が生まれた場所でもあるのです。...まだ、以前の歌手たちはいるのでしょうか? 昔の仲間たちは健在でしょうか? そしてかの偉大なるオーケストラは無傷なのでしょうか?」と書き記している。1949年9月8日にシュトラウスがこの世を去り、10月にバイロイト祝祭劇場で追悼演奏会が開催された。ヨーゼフ・カイルベルトが指揮を執り、演奏したのはシュトラウスがこよなく愛したシュターツカペレ・ドレスデンだった。「死と変容」と「メタモルフォーゼン」が会場に響きわたった。

●戦後の復興
シューフの没後、フリッツ・ライナー(1914-21在任)、フリッツ・ブッシュ(1922-33)、カール・ベーム(1934-42)、カール・エルメンドルフ(1943-44)がその職を受け継ぐ。1944年8月31日の《魔弾の射手》を最後に上演は中断され、1945年2月13日に連合国軍の戦略上無意味な空襲によって、ゼンパーオーパーを含むこの美しい都市は灰燼に帰した。しかし、1945年8月20日には焼け残った会場を利用してヨーゼフ・カイルベルト指揮による《フィガロの結婚》が上演されている。オペラとオーケストラの監督を兼任したカイルベルトは50年までその職にとどまり、戦後の歌劇場の復興に尽力した。48年からはかつてのシャウシュピールハウスの場所に建設された州立劇場が歌劇場の本拠となる。シュターツカペレ設立400年を記念するベートーヴェンの《フィデリオ》で開幕。その大劇場(1103席)ばかりでなく、小劇場(525席)も上演会場として使用された。
カイルベルトの後継者としてルドルフ・ケンペ(1950-53在任)、フランツ・コンヴィチュニー(1953-55)が音楽総監督をつとめ、56年から58年までロヴロ・フォン・マタチッチが首席指揮者をつとめ、その後、オトマール・スウィトナー(1960-64)、クルト・ザンデルリンク(1964-67)、マルティン・トゥルノフスキー(1967−68)が後任の首席をつとめている。60年代に指揮者に加わったジークフリート・クルツは1971年に音楽総監督に昇進した。75年にはヘルベルト・ブロムシュテットがオペラとオーケストラの首席指揮者となり、1985年までそのポストにあった。一方、演出面ではハリー・クプファーは72年から81年まで、オペラの監督と主任演出家を務めている。
長年の懸案だったゼンパーオーパーの再建については1952年に着手され、1956年までにファサードの修復が完了、再建案について議論が交わされた結果、70年代にほぼ元のプランどおりの再建が決まった。ただし、客席空間が若干拡張され、元の1600席が1300席に減らされ、客席はゆったりしたものになった。舞台の部分については12メートルの拡張がなされ、舞台装置も当時の最新鋭の機械の導入が決まった。1977年に再建が開始されたゼンパーオーパーは1985年に完成をみた。

●新ゼンパーオーパーの誕生
1985年2月13日、ゼンパーオーパーの美しい外観に再び生命が吹き込まれた。上演された演目はドレスデン縁の作曲家の作品で、戦前、最後に上演された《魔弾の射手》だった。1989年10月18日、モスクワ、ミンスクへの客演から戻ったゼンパーオーパーのメンバーはホーネッカーの失脚を知った。ゼンパーオーパーの新たな時代の始まりである。1991年には、オーケストラはドレスデン国立歌劇場管弦楽団からザクセン州が管理運営するザクセン州立歌劇場のオーケストラ、ザクセン州立シュターツカペレ・ドレスデンと改称された。
1990年1月にクリストフ・アルブレヒトがインテンダントに就任し、1991年にはベルクの《ルル》、ツェムリンスキーの《小人》、ダラピッコラの《囚人たち》といった作品がドレスデン初演されるなど、レパートリーの面でも大きく様変わりした。指揮者ではハンス・フォンク(1985-90)がシュターツカペレの首席指揮者をつとめた後、1992年にジュゼッペ・シノーポリが首席をつとめ、リヒャルト・シュトラウスのオーケストラ作品をはじめとする数多くの名演によってオーケストラの新たな時代の到来を強く印象付けた。しかし、ゼンパーオーパーについては長らくその名声にふさわしい指揮者を得ることができなかったというのが実情だろう。
シノーポリがゼンパーオーパーの音楽総監督に就任が決まっていた2001年4月21日、ベルリン・ドイツオペラで指揮中に倒れ、そのまま急逝したことは、ゼンパーオーパーにとって絶大なる損失だった。2007年9月、オペラとオーケストラを掌握する高い能力を持った指揮者ファビオ・ルイジの音楽総監督就任によって、ゼンパーオーパー、シュターツカペレ・ドレスデンはようやく統一の混乱から抜け出し、大きく羽ばたく環境が整ったといえるだろう。

●ルイジ就任による活性化
2005年10月30日、ドレスデンの悲劇の象徴として瓦礫の山として残されていたかつてのドレスデンのランドマーク、フラウエンキルヒェが再建され、ドレスデンの旧市街は戦前の町並みへと復旧が進んでいる。11月4日にはルイジ指揮、シュターツカペレによって記念演奏会が開催され、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」が演奏された。それは日本でも放映され、DVDでも入手できるのでご覧になった方も多いだろう。ルイジとシュターツカペレの相性の良さは録音を通してもはっきりと認識できる。就任に先駆け、2006年6月、9月にゼンパーオーパーで指揮した《ニーベルングの指環》チクルス上演でも成功を収めたルイジの前評判は非常に高い。
ルイジはオーケストラについて、次のように語っている。
「シュターツカペレは世界最高のオーケストラのひとつ。ゼンパーオーパーの魅力の大部分というものはこのオーケストラの力によるものです。おそらくウィーン国立歌劇場に比肩する唯一の存在でしょう。それから私にとって興味深いのはこれから構築していくべきところが多くあること。オーケストラについて言えば、ここ数年間、プログラムがこれまであまりに保守的でした。新しい作曲家の作品についても積極的に取り入れていきたい。新作委嘱も行います。初年度はドイツのイザベル・ムンドリ、次年度はオーストリアのベルンハルト・ラングにレジデント・コンポーザーをつとめてもらいます。」
こうした新しい作品への取り組みがオーケストラを活性化し、しいてはオペラ上演の水準の向上につながるのは間違いない。歌劇場の歌手の起用については、ドレスデンではアンサンブル・システムが堅持されている。「スター・システムを排し、高水準のアンサンブルを構築しているところが大きな特徴。同じカンパニーに属す、という意識を共有している。それがともに音楽を作り出す際に大きな力を発揮します。」と語る。
この9月2日、日本公演でも上演される《サロメ》で音楽総監督としての初仕事を終え、9日にはイザベル・ムンドリの新作「バランセン」、ベルクの「初期の7つの歌」、そしてリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」の初演版で就任披露を行った。このプログラミングにもルイジの考えは明確に反映されている。そして、10月14日にはワーグナーの大作《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の新演出を指揮してその力量を問う。
2003年以来、インテンダントをつとめるゲルト・ユッカー教授は、ザクセン州の財政状態が決して良好とは言えず、州が運営するゼンパーオーパーの経営に影を投げかけていることを危惧しながらも、ルイジの就任による新時代のこの歌劇場にきわめて大きな期待を寄せている。ルイジ時代初の大プロジェクトとなる日本ツアーにかける期待はきわめて大きい。シュターツカペレ・ドレスデンというドイツが誇る至宝、そしてゼンパーオーパーの名アンサンブルにさらなる磨きをかけて公演に臨む。

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